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009◆こだわり、に、こだわり続けた世代。


  自分たちが産み落とす楽曲+ア−トワ−クに関して、所属事務所やレコ−ド会社の言いなりにならないー
そう。なんかあったとしても、ぜったい自分達の、そのスタイルを貫きとうしちゃうア−ティストが、登場した90年代の頭。
  まずは、1990年のアルバム『HUMANITY』でデビュ−した『THE MAD CAPSULE MARKET'S』。インディ−ズで頑張ってやってても、
メジャ−契約したとたん、ちょっと、いろいろいじくられちゃって、ワケわかんなくなっちゃうバンドが多い中。
ほんと、彼ら4人は、個に正直に向かいあって、、自分達の、、独特なポジションを掴むことにガムシャラだった、と。
強く感じる。実際、ア−トワ−クの相談を超えて、ライブや、レコ−ディングには、、、よく、、顔を出してた。
  そこでは、どんな過程でレコ−ディングやライブが進んでくのか、、はじめて、、、じっくり、、眺められた。
コンポ−ザ−のタケシやKYONOなんかは、、オレの声質まで、、じっくりと、観察してて、、、
今じゃ考えられないけど、、2ndアルバム『カプセル・スープ』のレコ−ディングでは、、2曲コ−ラスで参加させられちゃうし、、、
ギャグ(?)かも知れないけど、、、『GOVERNMENT WALL』って曲なんか、全曲レコ−ディング・ブ−スで歌わされたあげく、、
レコ−ド会社のディレクタ−から、、「新曲を聴かせてよー」って時に、そいつ聴かせちゃうって、、、ふざけたコトやっちゃうしー
  レコ−ド会社っていうか、音楽業界っていうか、、まあ、、すべての周りに対して、いつもクエッションを投げかけていた。
「ケンさぁー。こんなのって、どうよー。カッコ良くねー。」なんて、、いつ降ってくるかも知れない新しい彼ら独特で、孤高な、、、発想を、、、、レコ−ディングスタジオで、ずぅ−と過ごしながら、、、ただ、、、楽しんでた。
もちろん、『BUCK-TICK』のIMAI。『X JAPAN』のhide。っていったオレと同世代のア−ティストも、
インディ−ズ盤『HUMANITY』を聴いてから、そのサウンドのファンになっちゃって。、、、、まだ、、無名の彼らと、
雑誌で対談を持ちかけちゃうし、、、(タケシ+IMAI+hide対談、ね)。、、、、ライブにはぜったい顔出してたし、、、。
ほんと心強い弟分の登場!ってカンジだった。同じレコ−ド会社でもある『BUCK-TICK』のIMAI邸には、たびたび、、
みんなで遊びに行っては音楽シ−ンの話で、盛り上がった。
  1993年3月には、また、また、また、オレ。
クラブチッタ川崎でのイベント---イングランドのバンド「G・B・H」+「THE MAD CAPSULE MARKET'S」
+「AZ」(ラップグループ「ZINGI」&「仲野茂BAND」のジョイントグループ)出演のロック・コラボレーション『SENSE KILLS』のアートディレクションと舞台美術をやった。真っ赤な会場構成に、これでもかっ!ってくらい眼!眼!眼!眼!眼!
の、シルクスクリ−ン作品を制作した。G・B・Hのコリンとは、、チッタの駐車場で、、一緒にサッカ−やった。
(?でも、、なんでサッカ−・ボ−ル持ってったんだろう?いまだに、謎?) ともかくイングランドVSジャパン イン カワサキ!
  1991年のイベント「dead start」とは、また違って。ラクゥ〜な気分で、楽しいイベントになった。
  『LUNA SEA』の5人も。こだわり、に、こだわる心強い弟分の登場!だった。
まずは、そのファッション。ヘアスタイル。音楽性。どれを、とっても、オレがいままで出会ったことのない世界だった。
5人で、それぞれ、主張があり、、、ここにも、、、こだわりの、こだわり!!
メジャ−契約したとたん、ちょっと、いろいろいじくられちゃって、ワケわかんなくなっちゃうバンドが多い中。
オレ達5人で、音楽業界やレコ−ド会社と対等に!!!、、、やって行く! 
といった、なんか物凄いパワ−を見た。
1991年LUNA SEA メジャ−デビューにおけるアートディレクションからスタ−トしたが、
ミィ−ティング。ミィ−ティング。ミィ−ティング。の、毎日が続くのであった。ここの現場でも。
レコ−ディングスタジオで、ずぅ−と過ごしながら、、、(しかし、、なんか、みんなで、よく牛丼食ってた。これでもかって、牛丼食ってた。!笑!)
『LUNA SEA』の5人と一緒に、独特で、孤高な、、、発想を、、、産んでいった。
アルバム『IMAGE』+VIDEO『IMAGE or REAL』パッケージ・デザインはもちろん、
ツア−グッズや雑誌への登場感やら、広告展開、POSTERデザイン、、、、etc.
すべてに於いての『LUNA SEA』5人としての表現を、向かいあって、吸収しあって。独特で、孤高な、、、発想を、、、、
誕生させていくのだった。
  ここにも、強力な磁力とマジック=宇宙!があって、、誰が、、いったいリ−ダ−なのかすら、、判らなかった。
  で、オレはアルバム『IMAGE』の撮影では、、、『LUNA SEA』5人に、それぞれの部屋を与えた。
そう、この『LUNA SEA』5人がいる部屋の、温度や、湿度、時間や、状況、、、、etc.すべてが、5人がそれぞれIMAGEしたものだ。撮影には、いっさいの妥協は許されず、、、たとえば、、、、朝イチにスタジオ入りして、、、、
すべてのセッションが終了するのは、、、決まって、、、、、、翌日の朝。つまり24時間。ずぅ−とフォトセッションなのだ。
  メンバ−も床で、仮眠をとったりしながら、、、、、、、完成までホント頑張った!
  こんなにヴィジュアル表現にまで興味が旺盛なBANDは、、、ほんと、、、会ったことが、、、なかった。
  そのうち、、フォトセッションの効率を考えては、、集合カットは極端に減らして、、5人別々にスタジオ入り、撮影後は別々にアップ、、
するようになった。決まって最後を 『J 』! ってことになり、、BASSの『J 』とは撮影後よく朝まで付き合って呑んでた。
  『J 』は、もともと『INORAN 』と同様。1989年のBUCK-TICK 『バクチク現象』東京ドーム ライブを高校生の頃、見て。
自分たちも近い将来、、、メジャ−デビューして、、、プロとして、、食ってくって決意した男である。
     『BUCK-TICK』のメンバ−や『X JAPAN』のhide達がよく行く店。
----そう、六本木や西麻布あたりの日常=異常生活者の仲間に、、加わったのである。
向かい合って、腹わって、感じあわないと、前には進まないんだ。今でも続く、彼との夜のセッションは、、ここでもスタ−トした。
1stシングル『BELIEVE』ジャケット。2ndアルバム『EDEN』ジャケットデザイン。
そして、Tour『SEARCH FOR MY EDEN』におけるグラフィックワーク-----忙しくなった彼らを追っかけては、地方公演にも顔を出したし、、
どこでも、夜のセッションは楽しかった。ビデオ『Sin After Sin』パッケージ・デザインからTour『The Garden Of Sinners1993−94』
超高速で『LUNA SEA』の5人は、、、音楽業界のカベを次々と蹴っ飛ばしはじめた。
  『BUCK-TICK』のメンバ−とはさらに絆の深いものになり、
レコ−ディングスタジオに、、たいして用事がないのに遊びに行き始めた。当時、レコ−ディングスタジオロビ−には、
ちょっとしたBARがあり、、、バ−ボンをチビチビやっては、、、その日、産声をあげる新曲たちの誕生を待った。
『アナ−キ−』のシゲルや、『THE MAD CAPSULE MARKET'S』のメンバ−もBARに遊びにきては、、、
レコ−ディング中の『BUCK-TICK』のメンバ−を訪ねてた。
シングル『ドレス』から始まり。アルバム『darker than darkness -style93-』。シングル『d i e』ジャケットデザイン から Tour『darker than darkness -style93-』におけるグラフィックワークが1993年の仕事であり、、
『darker than darkness -style93-』のジャケなんかは、、レコ−ディング完了よりも、、早いタイミングで生まれた。
自分でも、、、ジャケット!!このイキナリの怪物の誕生!!!!ってなんだろぅ?って不思議だったけど、、
イカシタ、、モンスタ−アルバムが、、、カミカゼのように、、、あらわれてしまった。
  これも、、、、レコ−ディングスタジオのロビ−がBARだったから、、、ってワケ!、、、、ないかっ!、、、、。