SAKAGUCHI KEN FACTOY,inc. 2-14-10 Misyuku,Setagaya-ku,Tokyo,Japan 154-0005 TEL:03-3424-2304 FAX:03-3424-2341
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018◆生きてるリアルを伝えなきゃ、、
    RED ROOM 2097から。



  ノ−・ダウンだ!笑って、また、ゆっくり立ち上がった。1997年の正月からは、また自宅療養と通院からスタ−トしたが、確実に頭が重たく、クラクラするが、入院中に比べりゃ、ぐっと回復してきた。

  BLUEとREDのクロスロ−ド。オレの中にある2つの色。それが自分の中で、はっきりと見える。
ギリギリまで、そいつらに毒をまき散らし、ギリギリまで、ハッピ−にさせては、舌出して、逃げて、逃げて、、、
  自分自身までもギリギリまで追い詰めて、ギリギリの精神状態を楽しんでた。
なぜだろうか、自分の中のBLUEとREDが、大戦争してた。
  戦争なのか?わからない?狂ってて、安心できた。狂ってる時間が、、、、長く続いてた。
自分が自分の意志で行動してなかったり、発言してなかったりで、、、
  もう一人の、とんでもない人格を、この世に出現させてしまった。
BLUEとREDがクロスしてもいい。はっきりと冷静にしよう。
  この世に自分自身も知らない人格を産むのは、きっぱり、やめよう。
  入院当時のノ−トには、「神様が、粋がってきたサカグチケンに対して脳天をブン殴っただけだ」と続いてた。
そんな1997年の1月。活動休止した『LUNA SEA』の J や、サッカー日本代表・岡野雅行「浦和レッドダイヤモンズ」なんかに新年会に誘われた。なんとも、元気、いや勇気付けてもらった。 J は初めてのソロ活動。岡野はワ−ルドカップ出場。
で、オレは復活!が1997年のテ−マだった。なぜだか、酒が一滴も呑めないオレが、みんなは珍しいみたいで、、、おもしろがってくれた。みんな、それぞれが、1997年はぜったい!やるぞ!と。

  初来日するMARILYN MANSON JAPAN TOUR1997におけるフライヤーの制作が初仕事だった。
続けて、『BUCK-TICK』はレコード会社移籍が決定した。なんか、すべての環境が、リスタ−トされた。
  櫻井敦司も無事に復活。1996年延期になっていたTOURは「BUCK-TICK TOUR'97 RED ROOM 2097」とタイトルを改め、全国4ヶ所、10本のライブを行うことと、なった。日本武道館『RED ROOM 2097』におけるグラフィックワークがスタ−トした。で、ひさびさの再会になった。特にATSUSHIは急病で、その写真集制作が中止になったネパ−ルから帰国する、、、、、、まさにその前夜の、、ネパ−ルでのホテル部屋呑み、、、、以来だった。
  なんか、ATSUSHIもオレも、生まれ変わったようにヤセ細っちゃって、、、別人のようだったけど。でも、お互い、照れながらも復活を喜んだ。で、いつもと変わんない感じで、居酒屋いって、みんなで飯喰って、呑んだ(オレは呑めなかった、が)。その、なんか周囲の"いつもと変わんなさ"が、なんとも、あったかくて、ここち良かった。

  数日後、『RED ROOM 2097』のグラフィックワークのために撮影をした。カメラマンはこれまたネパ−ルで別れて以来のM.HASUI。凛とした空気感の中、ただただ赤の中に立つメンバ−を、その内側から出てくる意志のカタマリを、ストレ−トに切り取っていった。ア−トワ−クの中でもBLUEとRED。戦争と平和。死と誕生。地球と宇宙。などと、オレの中にあるクロスロ−ドをコラ−ジュしていった。その場所、RED ROOM 2097に繋がるように、と。パンフレットでは表現しきれなかったから、7枚組のポスタ−形式にまとめた。3月、日本武道館での『RED ROOM 2097』は、なんとも感慨深い、『BUCK-TICK』の復活だった。ATSUSHIはやっぱり照れながらオ−ディエンスに向かって「改造されちゃった」なんて、さらに煽って。だれもが待ち望んでた、そのステ−ジを楽しんだ。アルバム『COSMOS』からのツア−・メニュ−でもない、まさにリスタ−トにふさわしい内容になった。オレが初期の中でも大好きで、すぐに絵が浮かんだ曲「ANGELIC CONVERSATION」に、デビュ−アルバムからは「HYPER LOVE」、そして、なつかしいシングル曲「悪の華」や「M・A・D」、、、。まるで『BUCK-TICK』を再確認するように、1曲ごと、ほんとうに丁寧に、演奏が続いた。そして、アンコ−ルは、いつもにも増して、その声援が巨大に感じられた。いいステ−ジだった。
  ATSUSHIに「十二分に声、出てたよ」って、終演後の打ち上げでも喋ったが、「いや、まだまだ、、まだだよ、、これから、、、なんだよね」って、またデカい口元がいつもと変わらない、例の怪しい笑いで、、ピキッ!とウインクした。なんとも、またまた元気、いや勇気付けてもらった。で、いつものように、朝まで復活の宴は続いたのだった。『BUCK-TICK』の地元、群馬からの友達(オレたちのキャンプでもおなじみ!)も、みんな駆け付けてくれた。
  3月には、『GaZa』が結成された。 この ユニットは仲野茂(ANARCHY) + 藤沼伸一(ANARCHY) + DJ KRUSH + J (LUNA SEA) + 澤田純 の5人が一夜限りのLIVE『'97RPM』のために集まったものだった。そこでのグラフィックを手伝ったのだが、世代もジャンルもスタイルも超えた、まさに真剣勝負!って感じで、これもオレを勇気付けてもらった。5人が、その夜に用意した音楽という名のキャンバスを、交換しては、さらに上からペインティングするかのように、さらにそれぞれのキャンバスが上書きされて完成していく様を、その場で披露してもらった。まさに、オレとコラボレ−トしてきたア−ティスト同士のコラボレ−ト!さすがに、強烈だわ。
  5人とも、「オイ!ケン!ピュアな目線で、強烈なビ−トとスピ−ドで、すべてを呑み込んで、どんどん誕生と破壊を!この瞬間に!、、、、、それを忘れんじゃないよ!原点に帰ってみなよ!、、、、」なんて意味の、ポジティブイメ−ジのメッセ−ジをもらった気がした。あと、「酒が呑めないくらいで、元気なくしてんじゃねぇ!」って打ち上げで5人から、これまたキイッツイ!ヤジ!も、うれしかった。
  中山美穂とはベストアルバム『TREASURY』のジャケット撮影で、ハワイロケに行くこととなった。これも、心配で、主治医にも相談して、、飛行機って、この頭の重たい感じで大丈夫なのか!これを、確認した。YES!大丈夫!!で、事故後、初めての海外ロケへ向かった。なんとも、ハワイには「本物の天使が降り立つ場所」があると、いう。その打ち合わせの段階から、青空と海と白い砂、、、真っ白い羽をつけた天使が、、、、なんて、頭の中でピ−ス!が、やさしく笑ってて、なんとも幸せな気分にさせてくれた。
  東京は、すっげ−寒かったから、、、病院の先生も、、、療養には最高ですね。なんて、、、、。
  で、本物の天使との出会いを!と思い込み!12年ぶりのハワイへと旅立ったワケですが。なんか、街全体が都市化されてて、、びっくり!高層ビルやマンションやホテルだらけ!で、明らかに初めて来たイメ−ジとは違っちゃってるのですわ。まるで、都会をそのまま南の島に持って来て、、、まったく!、、、、まぁ、毎年来てる人からすりゃ、たいしてぇ〜変わってないよ。って思うんだけど、、、。
  ジャケットのイメ−ジはもう決まってたから、空き時間は、頭が重たいし、、、ただただ寝っ転がって、グライダ−と鳥が遊ぶ青空ばかり眺めては、のんびりと過ごした。それは、まるで子供に帰ったみたいで、、、海水浴行って、日焼けして、、なんて、今じゃ無縁な時間を存分に過ごさせていただいた。たった2日だけど、、もう、何日もそこに居るイメ−ジと、ゆっくりと流れる時をリアルに感じてた。
  ジャケット撮影は、プライベ−ト・ビ−チで美穂ちゃんは天使になった気分で、白浜と、青の中を、自由に泳いだ、泳いだ。その心の底から出てくる彼女の笑顔に、、、また、また、元気、いや勇気付けてもらった。なぜだか、ラジオやCDから流れてくる音より、寝転がって地面に頬を寄せて、自然の鼓動に触れて、心を洗ってた。久しぶりのハワイ旅、撮影&療養編!だった。
    CTスキャンと治療の経過を見るため、通院しながらではあるが、だんだんと自分自身の中にも、またエネルギ−が、溜まってきたイメ−ジを覚えてた。街歩いてても、人とすれ違ってもコワかったイメ−ジも、なくなった。人間は出会った同志でどうにでも、変われる。オレが仕事や生き方で、付き合ってきたヤツラはいつも、刺激と勇気をくれる、、、そして、オレの中のクズを、さっさと捨てろってメッセ−ジをくれてるんだ。強烈なビ−トとスピ−ドで、すべてを呑み込んで、どんどん誕生と破壊を!この瞬間に!デザイニングするんだ!ガケっぷちかもしれないけど、、、勇気を心の底から、奮い立たせろ!なんて、考えてた。

  『LUNA SEA』がこれまで歩んできたライブヒストリー・ビデオ『 >>R E W 』ビデオパッケージデザインでは、『LUNA SEA』の5人を"人間に恐怖心を抱かない、賢くて用心深い黒い鳥"カラスに喩え、5人がソロ活動の間に、どんな跳び方を見せてくれるのかを、イメ−ジするグラフィック表現を提案した。これも、寝たきりの病室から、その姿を見て、「鳥って、ヤッパ自由だなぁ、、」ってイメ−ジしたこと、だけれども、、、、。

  奥田民生のバックバンドとしてもおなじみの『Dr.StrangeLove』。そのアルバム『Dr.StrangeLove』+シングル『手のひらの中のFreedom』ジャケットデザインでは、レコ−ディングスタジオから都会に出て、闊歩しちゃう、かわいい子供たちの兵隊を、いたずらに起用して。オレたちがガキの頃、戦争ゴッコやってて、あこがれてた迷彩服。それを着て、またまたヤンチャぶりを発揮しちゃってるモデルの子供たちから、ガキの純粋なエネルギ−とパワ−を頂戴したかったのかも、、、、、。
  『LUNA SEA』のベーシスト『 J 』のソロ・プロジェクトにおけるグラフィックワークも、始まった。『 J 』が設立した事務所『FOURTEEN co.,ltd.』のコ−ポレッドCIのデザインからスタ−トし、現在制作中のソロ・プロジェクト用の楽曲のタマゴを聴きながら、、、今後1年間の『 J 』に関するグラフィックワークを考えていた。
  、、、、『 J 』とは『LUNA SEA』がメジャ−・デビュ−する時に出会って、それ以来、ことごとくセッションでは、お互いの思いを交換してきたが。、、、、いや、今度は『LUNA SEA』の、いままでの『 J 』を、も、大きく否定するくらいの意気込みでのミ−ティングになった。それは、逆に言い替えるならば、初期衝動の頃から変わってないのかも知れない。彼ら5人は、デビュ−前から、それぞれが微妙に異なるが、さらなる大きな結論を抱いてセッションに現われたわけだし、それが、そのまま『LUNA SEA』っていう巨大なバンド・カラ−を形成してきたワケだし。ただ、異なるのは、ここでは『 J 』本人が100%ジャッジして、100%結果を出していくってこと。『LUNA SEA』と同じレコ−ド・メ−カ−と契約したのだが、そのスタンスは誰もが理解してた。『 J 』のセルフ・プロデュ−スなワケで、レコ−ディングの場所から、エンジニア、バンド・メンバ−、カメラマン、すべて『 J 』本人がチョイスした。負けん気が爆発する。   オレからは、国内で2回のフォト・セッション+レコ−ディング先のL.A.で2回のフォト・セッションを提案した。その4回のセッション、すべて、まったく違った内容にしたかった。まずは、『LUNA SEA』でもメインカメラマンの『NICCI KELLER』とのセッション。これは、『 J 』が始動すること、そしてシングル『BURN OUT』のプロモ−ションのため。コンセプトは「象徴としてジ−ザスのように裸になって張り付けにして、J 色の世界に染めろッ!」、、、、都内のスタジオの中でのセッションだったが、完璧なる異空間をスタッフと全力で作り上げた。セッションとしてはハ−ドなものだったが、メイキングを公開したくないくらい、オ−ルスタッフが心を裸にして真剣勝負で生み出したヴィジョンだった。
  国内での次のフォト・セッションは海外ア−ティストとのセッションが多く、特に『MANIC STREET PREACHERS』とは親交の深いカメラマン『ミッチ池田』。彼とは発見とライブ感覚のあるセッションになった。現場でぶっつけ本番で模様をペインティングしたり、スタジオの駐車場に火を放ってみたりと、、、。アドリブの中で、遊んだ。
  そして、レコ−ディング先のL.A.では、これも『 J 』本人の強力なリクエストが呼び込んだのだけど、世界的に凄いって言われてるカメラマンのひとり『ANTON CORBIJIN』。彼は『U2』『THE ROLLING STONES』『NIRVANA』などともセッションやってる男。まさに、オレも大好きなカメラマンだし、、まさか、いや。強い思いは叶うものだ。
  で、もうひとり『PHILLIP DIXON』。『 J 』もお気に入りのブラッド・ピット主演映画「カルフォルニア」のスチ−ル・カメラや、オレが『中山美穂』のアルバム『Mid Blue』で1995年にL.A.で一緒にセッションした男。また、再会できるのだ。やっぱり、強い思いは叶うもの。
  まずは、『PHILLIP DIXON』とのセッションのため、L.A.に行くこととなった。いつもどうり、これも、心配で、主治医にも相談して、、飛行機って、この頭の重たい感じで大丈夫なのか!これを、確認した。YES!大丈夫!!あと、、、少量ならば、酒とかも呑んでもいいよ。ってことだったから、、都内で『 J 』との打ち合わせの帰りに焼肉やで、ほんと、半年ぶりのビ−ルを呑んだ、、、が、、、うれしいけれども、、、まるで、子供の頃はじめて呑んだときくらいニガくて、なんだ、ニガイって!なんて。そのビ−ルの味すら覚えちゃいなかった。笑った、笑った。笑えるくらい復活なんだ。
  『 J 』のソロ・プロジェクトは、L.A.で本格的にスタ−トする。L.A.では「レコーディング前夜祭バーベキューパーティー」が用意されていた。レコ−ディングに参加するドラムスのスコット・ギャレット、ギタ−の藤田"CB・GB"高志、レコーディングエンジニアのジョ−・バレッシィ、日本からのレコーディング・スタッフ、そしてオレらフォト・セッションのチ−ム。もちろんレコ−ド会社の皆さん。会場は山の中の別荘だった。緊張感のあるパ−ティのスタ−トだったが、、、そこへ、なんと、同じレコ−ド会社に所属する『 h i d e 』が、マネ−ジャ−と2人で現われたのだ。アッハッハ−。一気に賑やかになった気がしたが、、、いやいや、、、皆さんシャイ???だったらしく、通常のジャパニーズ飲み会モードに突入したら、和み、和まされての、雰囲気の良い前夜祭になった。
  ここで、活動休止宣言をした『LUNA SEA』 横浜スタジアムのバックステ−ジ以来での『 h i d e 』との再会ではあるが、もっとビックリしたのは、『 h i d e 』ったら、オレと会った、すぐその後、『頭蓋骨割った男』の仲間入りをしてた。お互いのアホさ加減を、罵りあうも、、同じ穴のムジナ、、、。ヤツは、なんでも、酔っぱらってバケツに足つっこんでの、転倒らしく、数日後、この頭の重たい感じで大丈夫なのか!などと、心配になってオレと同じ病院にいったら、頭蓋骨骨折してたらしい。お互いに、その回復が似てたのか、イイ感じで、罵りあった。罵りあった。
  で、『 h i d e 』は『 J 』のソロワークを、絶対に聞きたいらしく、、、聞けるまで、帰らない事に決めてる感じだった。閉会の辞が、コールされたが、「ケン!J!! L.A.の夜、案内するからオレの車で行こうよ−」ってオレと J は拉致されてしまった。土曜の夜ということで、クラブは入れずで、まずは、ってんで、なぜだか!ストリップバー!!!へ、直行!!!!!。ここは、『zilch』のメンバ−とかも、来てタムロしてるみたいだし、、『 h i d e 』の雑誌用の撮影でモデルやってもらったオネーチャン達ダンサ−も働いてるみたいだった。、、、、こうやって、彼女たちから、あの「MADONNA」が誕生して、、、なんて冗談言いつつも、、、、、、また、懐かしい顔が居た。マニュピレ−タ−『I.N.A.』ちゃん!だぁ!、、、やっぱ風俗人の、登場だぁ!なんて冗談言いつつ、、、、、、そのゴキゲンな勢いで、『 h i d e 』の案内で『 J 』のソロワークがスタ−トする、その店の向かい側の、スタジオに突撃した。『 h i d e 』の友人達『AMEN』というハードコアのバンドがちょうどレコーディングをしている真っ最中だった。そこでは、『 h i d e 』もうひとつのユニット『zilch』のメンバ−と会った。ギタ−の『RAY McVEIGH』と、ベ−スの『PAUL RAVEN』だった。犯罪者のようなルックスのヤツラなのに、土曜の夜に仕事してる。、、、えらいなぁ。、、、こんなスタジオ突撃攻撃にも、フランクに迎えてくれちゃうし、『PAUL RAVEN』はやんちゃな犬と戯れてた、、。『 h i d e 』はその『AMEN』のレコ−ディング作業を中断させてまで『zilch』の曲「ELECTRIC CUCUMBER」だったか、、、無理やり聞かせてくれた。「想像を軽く超えた名曲だった。まさに世界に通用する新しいサイボ−グ・ロックだった!!!」、、、とにも、かくにも、『 h i d e 』はゴキゲンだ。なんか、ピョンピョン飛び跳ねてる。、、、、オレたちの泊まってるホテルまで、やって来た。深夜の静まり返ったロビ−からもうダッシュで、怪気炎よろしく!『 J 』の部屋を目指す。その日は、ゲネプロのテ−プを聴いて、相当満足してた、、、(らしい)。ともかく、ちょっと、他ではあり得ない、この前夜祭は楽しかった。
  『PHILLIP DIXON』とのセッションはレコ−ディングの合間をみて1日でやった。はじめて、彼のベニス・ビ−チにある家で撮影することになったが、、、また、さすが世界を代表するカメラマンだわ。なんと、家の中を川は流れてるは、庭には木の上に部屋があるは、メイクル−ムやら、もちろんスタジオまである、、、ほんと要塞か、基地のような家だ。まったく生活感のしないク−ルな空間だった。ポラロイドに写し出される『 J 』は恐いくらいの重量感のあるものになった。堂々としたものだ。これは、このポ−トレ−トは『 J 』のファ−ストアルバムの中に入れよう、、って確信した。
  撮影から現像、ベタのセレクションまでで、最初の滞在はわずか1週間だったけど、その間、『 J 』のレコ−ディングの様を楽しんでた。、、、シングル『BURN OUT』のカップリング予定の「Call Me」から、リズム&ギタ−・ダビング、、、いよいよだぁ!なんて攻撃的なスタ−トを確信しながら、その後の作業が待つ東京に一度戻った。


  シングル『BURN OUT』のア−トワ−クやプロモ−ションデザインを終えて。、、再び、世界的に凄いって言われてるカメラマンのひとり『ANTON CORBIJIN』とのフォトセッションのために、一ヶ月後、またL.A.に向かった。今度は、『ANTON CORBIJIN』のスタッフのヘア・メイクとスタイリストが、一緒だった。再会した『 J 』は、このROCKな街=L.A.に、ほんと、馴染んで、その空気すべてをエンジョイしてる様子だった。『ANTON CORBIJIN』との初めてのミ−ティングもスム−ズに進み、彼の中にイメ−ジとしてある『 J 』にピタリのロケ場所を探してくれた。なんと、そこは、まだ臼煙りが立ち上る、、、、工場が放火された後地だった。その焼けこげた広いスペ−スのすべてを使って『 J 』とセッションした。なにしろ、彼はシュ−ティングに迷いが、ない。2人は、お互いにはじめてだとは感じれないくらいの余裕でセッションしていた。ときどき、笑いも出る。それが、また、その先のファインダ−の構図にも、良い影響を与えてた。
  いったんブレイクがあって、「ランチは日本料理がいいっ」て、ANTONが言い出したので日本料理屋にランチに行った。その食事後、なぜだか駐車場でバスケットやってる子供たちが居て、、それを見たANTONとオレはボ−ルを借りて、遊んだ。なんせ、190cm以上はある長身の大男だ。オレがボ−ルを取ろうって頑張ってみるもんの、、、相手にもされず(って無理か、、)。、、、、、なぜか、その食後のひとときが、楽しくて、、、。で、その後、そこの駐車場でも『 J 』を撮影したのだけど、、、ここでのカットがその後のポスタ−やプロモ−ションの軸になるなんて、、、。
  撮影が終わって、スタッフみんなでクラブのカフェへ入って、呑んだ。そこで、オレの手帳にはANTONが、あるメッセ−ジをくれた。「For Kennie-san. Pass me the ball! Your Friendly GIANT! L.A.'97 ANTON」だって、、、。で、スタイリストのMARYAMも、、。「For Ken! The CRAZY Lover! I Love U! Call Me 777-5858!!!」、、、、キスマ−クまで、、、ふうぅ。
  その後、現像、ベタのセレクションまで3日間滞在した。レコ−ディングの現場に戻った『 J 』は、相変わらずの忙しさ!だから、オレの夜は『 h i d e 』家に遊びに行くことにした。彼の曲作りの部屋で、なんか、子供ん頃に遊ぶ感覚でギタ−さわらしてもらったり、そん頃では珍しかったホ−ム・ペ−ジの書き込みとか、、、その場で、返事を送る姿を見たり、、、、『 h i d e 』お勧めの新しい日本のバンド『Oblivion Dust』の曲を聞かせてもらったり、、、、まぁ、ガキ同志の会話ですが、、、、。で、「ケンもインタ−ネットやれよー!メ−ルっていいぜ!時差があっても、大丈夫だから、、あと、日本のファンとダイレクトに喋れるんだぜぇ〜!!」、、、なんせ、その頃ホ−ム・ペ−ジ自体で、、びっくりしてるワケでしょ。オレ「時差があっても、オレら東京のみんなは狂ってるから、時間感覚が、、だから、今までどうり国際電話で喋ればいいじゃん」、、、なんて、、。
  それから『I.N.A.』ちゃん呼んで、みんなで近所の日本料理屋にいった。、、、なんと、そこには『ANTON CORBIJIN』のスタッフのスタイリストMARYAM!が居るではないかぁ!偶然ッ!「 I Love U! Call Me 777-5858!!! 信じて、電話したのに、、、ギャグだろぉ!!」って、オレ。彼女も笑ってた。また、またL.A.も狭いったらありゃしない。MARYAMにも『 h i d e 』を紹介して、、、また、笑った、笑った。
  また家で呑もうって、帰り道。「ケンって、頭蓋骨割った時、どんな夢みたぁ?」っhideが突然オレに聞くもんだから、オレ「ただ、、ただ、、、、長く続いてる地下の通路、、、、延々と続いてる蛍光灯の下を、、、ハデな迷彩服を着て、、、担架に乗っけられて、、、何処かに運ばれていく、、イメ−ジ」だった、って言った。hideは「◯◯◯になっちゃった」なんて、縁起でもないこと言うもんだから、、、「バッカじゃね−のhide!」って返しといた。家で、前回の『hide SOLO TOUR 1996〜PSYENCE A GOGO〜』のビデオを眺めながら、hideのTOURウラ話を、聞いたり、、、入院生活の話をした。で、東京帰ったら、オレの事務所にもISDN入れてインタ−ネットやるからヨー、、って約束してホテルに戻った。
  『ANTON CORBIJIN』の現像もあがり、『 J 』のアルバム『PYROMANIA』ジャケットデザインも見えてきたのを確認して、、、また東京に戻り、『 J PYROMANIA TOUR 1997』におけるグラフィックワークを進めた。もう、復活!がテ−マの1997年、じゃない。確実に例年よりも忙しいのだ、サカグチケンは。

  月に2〜3回は通院してはいるものの、事故からはもう半年が過ぎようとしてる6月。頭カチ割った、もうひとりのDRUKER!!頭蓋骨骨折友の会?会員!!!『 h i d e 』も出来て、もう心の底からの冗談で、事故が語れるようにもなった。生きてるリアルを伝えなきゃ、、それが、オレなんかに科せられた使命じゃないか!ってポジティブな思いで、いっぱいだった。