SAKAGUCHI KEN FACTOY,inc. 2-14-10 Misyuku,Setagaya-ku,Tokyo,Japan 154-0005 TEL:03-3424-2304 FAX:03-3424-2341
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002◆同世代のBAND登場


  オレが高校を卒業して、1982年から1987年の5年間。[レコ−ドのジャケットを作る人]になるために、生きてる時間の大半をつかってた間にも、同世代のROCK BANDは、やっぱガムシャラにBAND活動を続けてた。新宿LOFTで、ガンガンやってたBOOWYもヒットチャ−トで上位に入り、、、
街に聴きなれた声がながれるようになってた。オヤジやマスコミではBANDブ−ムだ!って時代。かなぁー。
  そのころから同世代のBANDのデビュ−・ラッシュ!が続くのだ。
1990年のイカ天ブ−ムまで、、、オヤジやマスコミが作ったバンドブ−ムはブレイクした。(ブ−ムって、だから、大嫌いなんだけど。)
  ともかく、『THE ROCK BAND』のシゲルにさそわれて(オレが進んで行ってたけど)新宿LOFTに、チョロチョロ顔だすよーになって、、
LIVE終わってからも、LOFTに居座ってシゲルの友達の、いろんなミュ−ジシャンとも、呑みの席でいっぱい知り合った。朝まで呑むよーになった。
  そん頃の新宿LOFTの入り口の階段で、いろんな同世代のBANDのPOSTERやら、フライヤ−を見ては楽しんでた。どんな音出すんだろーLIVEおもしれーかなー、、とか。
  とにかく、朝まで呑むよーミュ−ジシャン!ってつきあって、呑んだその足で会社に行った日も、たびたびあった。
なんか、ファナティックで。おもしれーし。感覚が揺さぶられる感じだったし、そこは、オレの好きないろんなミュ−ジシャンのたまり場だった。
  日本のロック・シ−ンが回転して、旧態依然とした音楽業界が、なんか、、変わる気がしてた。
そん頃、会社勤めてるのにバンバン同世代のBANDが登場して[レコ−ドのジャケットを作る人]の仕事はフルスピ−ドで回転しはじめた。
上司に言って「タイムカ−ド押してから、会社の仕事終わってから、夜中に、休日に、、、」で、特別に許しをいただいて、、、
で、、また、、、死ぬほど忙しいし、毎日、、毎週、、山積みの仕事がやってくる。時間たりねぇーの生活が、また強力化してきた。でも、そりゃ楽しくて、楽しくて、、、
  『BUCK-TICK』新宿LOFTの階段で、目立ってたPOSTERの5人と会った。当時は彼らも超多忙でLOFTで呑んでるときも、居酒屋でも髪立てたまんま、だし。
スタジオでリハやってる時も、、髪立てたまんま、だったようなー。撮影も、雑誌の取材やらなんやら抱え、、一日に何本も、、スタジオのハシゴ。
で、、『ROMANESQUE』とか『SEVENTH HEAVEN』とか、あれも、これもで、、、、いつも朝、、朝、、、、お昼だったように思う。
会った当時、ほんと、ゆっくりと話した記憶が、、、、、ない。で、ジャケットの方向性に関しても、、じっくり相談してない。ともかく、すっげースピ-ドで動いてた。
  『DOOM』、、、今、J の後でギタ−を弾く"CBGB"藤田高志さんのBAND。その、『KISS』のメイクよりおっかないBANDにすっげー緊張した。
あのNEW YORKは"CBGB"でもLIVEやるし、、アメリカのインディペンデント・レコ−ドからもリリ−スするわ、、、すっげー緊張したが、メンバ−も照れで撮影は緊張したらしい。
  『THE BLUE HEARTS』シングル『チェルノブイリ』ジャケット撮影で会った。どこで撮影するぅ?て、聴いたら「モアイの前」って、、、
リハスタ行く前に、いつもメンバ−が集合する場所らしい。「ヘタなカメラマンがエエワー」って言うので、その頃プロカメラマンを目指してた弟のMASAの手腕にまかせた。
  おもいっきりチカラの抜けたPUNK ROCK from TOKYOの写真が撮れた。そのジャケットで彼らは武道館を見学に行ってしまった。
  『SION』写真集『SION』のアートディレクションで会ったが、足、折って松葉杖であらわれた。社長の単車でブッ飛ばしてだか、、とにかく松葉杖であらわれた。
  あと、照れ屋さんでバ−ボン「ワイルド・タ−キ−」を撮影中も、離さなかったなー。それで、よくギャグとばして笑わせてくれた。『アナ−キ−』のギタ−シンイチとも真っ昼間から中野の飯屋で、ガンガン呑んだこともあったが、、とにかく、しゃべりがおもしろくて、腹かかえて大笑いしながら呑んだ、呑んだ。
  『THE STREET BEATS』メジャーデビューアルバム『NAKED HEART』ジャケットデザインで会ったが、世代も、聴いてた音楽も近かったことと、OKI & SEIZI兄弟はオレとMASA兄弟とも離れかたも似てて、、、やつらも上京したばっか、で友達あんまりいなかったらしく、よく一緒に呑みにいっては大騒ぎした。
  OKIはジャケットの方向性に関して、いろいろアイデアを持ってて頭の中にある自分のイメ−ジを、どうやって出せばいいか、必死で悩んでたし、もがき苦しんでいた。 そこが、オレ最高の元気の素!に似てたから、いろんな話でセッションしてた。
  『G.D.FLICKERS』アルバム『REBELLIOUS HEROES』ジャケットデザインで会ったが、彼らも新宿LOFTの顔であり、LOFTを住処、寝床にしてるようなBANDだったから、、、
オレんことは、前から知ってたらしい。同世代なのに、ケラケラ呑んでるクソガキなイメ−ジって、か。サ−ビス精神に溢れてて、人間味あふれる。義理、人情の男気PUNK ROCK!
あと、いろんなジャケットの仕事がオ−ダ−されるようになったし、当たり前だけどギャラももらえるようになった。
  
    ほんと同世代のBAND登場に間に合ってよかったーって思った。ジジイになっちゃってからだと、、、なんか、こう、、、お互い遠慮しちゃって、、、、
やりにくくなりそう、、だから、、、。ストレ−トに話しあえる時代に出会えて、ほんと、良かったって思うもん。日本のロック・シ−ンも、変えていけそうなメンツだぁ!って思って。
003◆始めての個展から


  1988年。世間ではバンドブ−ムで原宿ホコ天(ホコ天・イカ天ブ−ムそれにしても、なんでもかんでも天国かいぃ!ってくらい)は、キャベツ頭したヤツラが、ランラン、ピョンピョン飛び跳ねては、似た様なカッコして、青春エンジョイしてた頃。
  オレのジャケットデザインの作品を見てNHKの衛星放送がインタビュ−に来たんだぁー。「それにしても若いねぇー」って終わってからもディレクタ−からいろいろと質問されて、それでいろいろ話したら、、、、原宿は竹下道りのど真ん中に、ディレクタ−の母親がギャラリ−やってるってんだーって、、、
で、「個展やらないかーいぃ。」ってんで。生まれて始めての個展を原宿の「ギャラリ-HASEGAWA」でやることにした。
自分の住んでた部屋もオレの作品のPOSTERだらけになっちゃってたから、、ちょうどいいかなぁ、、って。じゃ、ここまでの作品をまとめたカタログをまとめて。
全国から来る子供たちでいっぱいになる夏休みに1カ月やっちゃえーって。人がワンサカ集まって来て、近所の花屋さんも「なんか新しいお店できたんですかぁ」って。
OPENIG PARTYもグシャグシャになっちゃった。 PARTYおもしろいから、たびたびBANDメンツが遊びに来るたびにやった。
“The Man Who Designs Rock'n Roll”と題したこの個展ではロックミュージシャンをモチーフにした作品約50点を展示したが、、、
  なんか、終わってみたら。もっと、でかい作品つくんなきゃ!ミュ−ジシャンのドデカイシルクスクリ−ンを美術館に持って行かなきゃ!ってますます、制作意欲がメラメラ燃えあがってきた。『BUCK-TICK』も『THE BLUE HEARTS』も『THE STREET BEATS』も『SION』も『G.D.FLICKERS』も
  ガンガンLIVEやって、、、ともかく日本中が、ロックバンドを、、、激しく求め始めた。日本のロック・シ−ンは確実に変わって来てる。
2〜3時間しか寝ない毎日。たまに寝たら1日、ずぅ〜とベッドの中、、、とにかく20代前半は、、怒濤のごとく、、動いた。
  その頃。『アンディ・ウォ−フォ−ラ』が死んじゃって、大回顧展が、NEW YORKのMoMa近代美術館でやるってんで、、、、
もちろんNEW YORK。また、一人旅!って飛んでった。そこで19歳ん時LONDONのテイト・ギャラリ−で秒速で飛び込んで来た!シルクスクリ−ンがもう、ほんと、1日じゃ見れない点数の圧倒的パワ−の作品を前にして、、、ただ、、、また、、、ARTに向かう情熱が、、メラメラ燃えてきた。
滞在中、昼間はずっーとMoMaの中に居た。ほんと、住んでる人じゃないのーって、言われるくらい。
向こうで知り合って、2nd Av. X 2nd st. あたりにホ−ムシェアしてる日本人たちの家にも、呑みに行ったが、、
「昼間、MoMaで、直接、手でアンディの作品さわってたヤツじゃん、、」って言われ、、、、Haa-そんなぁアンディの作品に集中してたのかーってちょっとコッパズカシかった。ライブハウスCBGBに出てて、NEW YORKでデビュ−狙ってる同じような眼をしたヤツとも会った。
  同世代は、もう世界中でガンガンやってる。ほんと、もっと、もっと、やんなきゃ!って。メラメラ燃えてきた。よっしゃー。行こう!
  東京戻ってきたら、もうすげーショックな出来事がオレを待ってたー。『BUCK-TICK』がLONDON レコ−ディングのアルバム3rdアルバム『TABOO』をかかえてのTOUR中、、、会社の仲間が夕刊持ってきて、、、「これー大丈夫なのぉー」って。ギタ−のIMAIが新種LSDで逮捕!されちゃった。って、、、何!これッ!
、、、、また、頭ん中、真っ白だ。だって、今日、武道館のLIVE VIDEO『Sabbat 1』『Sabbat 2』発売日じゃん。Yo Yo Yo Yo Yo Yo Yo
『アナ−キ−』のメンバ−が事件起こした時を、思い出し、、、で、、また、、BAND名取り上げられて、、、活動休止じゃん、、Yo Yo Yo Yo Yo Yo Yo
グシャグシャになって、なんか思いっきり呑んで泣いたかも、知れない。ホント不安で、、また、、大人社会に、、、取り上げられちゃうのかぁって。
  アンディの大回顧展から、帰ってきたばっかりでミュ−ジシャンのドデカイ絵!シルクスクリ−ンで作ろうとしてた矢先の事。
じゃあ、てんで、、『IMAI事件の新聞記事』と。インスパイヤされたア−ティストの死は、何色かなぁーって考えて『5色の死』。
『アンディ・ウォ−フォ−ラ=銀の死』『サルバド−ル・ダリ=金の死』『ジョン・レノン=青の死』
『エルビス・プレスリ−=黄の死』『シド・ヴィシャス=赤の死』
この2大テ−マにゴ−ルデンウィ−クとお盆休みを使って巨大シルクスクリ−ンの制作に取りかかった。
  作品はキャンバスの1本分。じゃ、6本分。自分の身体よりも巨大なキャンバスと格闘した。その作品制作に、感情のすべてをぶつけてみた。
アンディ・ウォ−フォ−ラ。彼の制作風景のVIDEOとは似ても似つかない、、会社の休みを利用しては大会議室の机や椅子をかたずけては、巨大なビニ−ル・シ−トを広げ、空調の止まっちゃった蒸し暑い中。ひたすら、キャンバスに向かってた。体力が続いちゃうんだから、仕方ない、、、思いっきりペイントしてった。
  ほんと、巨大な作品には、巨大なパワ−が必要だ。オレの作品POSTERと、この新作の置き場所に困って、、、ちょっと都心から離れた下町に引っ越した。
そん時も、いったい何屋さんですか?って、引っ越し屋さんにも驚かれた。多分、こんな生活と直接関係ないモノのヤマに囲まれてるヤツッて
そんな、いないんじゃないか。大量のLPレコ−ドと作品POSTERのヤマ、ヤマ、ヤマ!って巨大な世間から言わせりゃ、、無駄なモンいっぱい生んでた。
なにが、なんでも自分の初期衝動を思い出して、自分を引き締めなきゃ!ダレちゃ、ダメなんだぁ!って。昔のムチャクチャ加減を、、忘れちゃわないようにぃ!!
イタズラ心と、衝動感に、も一度。火をつけてやった。
  そうしてる間に12/29『BUCK-TICK』が『バクチク現象』東京ドーム ライブで復活を遂げるってNEWSが入ってきた!
BAND名取り上げられてないし、、、もうNEW ALBUMのレコ−ディングに入ってるって、、、それで、、
パンフレットの撮影やら、『悪の華』のジャケット制作がスタ−トした。、、、『アナ−キ−』の件があるから、、ってホント心配したけど、、
スッゲ−!グッド!ニュ−ス!これで、ファンも生き方変わるし。ほんと、もう泣かないで済むんだぁーって、すごいうれしかった。で、、、
ますます、『BUCK-TICK』とよく呑みいっては、よく喋れるようになった。出会いから、ずっと彼らは超多忙で、ほんと仕事上のミ−ティングの席や
撮影現場でしか会ったことがなかったから、、、、ほんと、、やっと人間同士が出会ったってのが、、この頃かも。
とにかく、1988年から1990年はいろいろと、あった。
004◆サカグチケンファクトリー設立


  それは、そうと。オレのサラリ−マン人生。〜会社での立場ってのがホント、チョ−難しくなってきた。18歳で就職してから、そろそろ10年っかぁー。
部下も抱え、教育もし、、、、、、あいかわらず企業広告は難しくて、次々と難題がやってきた。で、考えたらこの身体も、土日、夜から朝まで休みなく10代から今まで酷使してきちゃってるし、、そろそろ、、、、。ただ、ただ繰り返しだけの毎日と別れ告げてかないと!
もっとジャケットを作るにしても、限られた会社員としてのオレの時間以外でやってくことにも耐えられないくらい、だし、な。
オマエさぁ、一生二足のわらじをはけるとでも、思ってんのかぁ!いつまでも、ここで甘えさせてはもらえないんあぁ!って
オレ自身の声が聞こえてきた。で、26歳。そろそろ、しゃんと自分の足で、世の中に立たなきゃ!って。
  真剣に悩んで、1990って数字のキリもいいし、6月にサカグチケンファクトリーって会社を六本木に設立した。ほとんど、アルバイト感覚での[レコ−ドのジャケットを作る人]の仕事から、本職として、[音楽とコラボレ−トできる会社]をつくろうって思ったの。もう、すべてが、、、
また、ゼロから。会社ってどうやって作るんだろう?、、、、先に独立した先輩のクリエ−タ−や同僚、会社の上司、、、とにかく、、、
あらゆる人に相談して、考えて。でも、あせんないで。また、独りになっちゃ、、考え、考えて、、で。会社で会った3人と、独立した。
  最初って仕事、、ほんと、、くるかなぁってすげー心配で。サラリ−マンやりながら、もう一人がいるように内職してたワケでしょ。
好きで何かやって、食うためにバイトやってたり。今でも、いっぱいいると思うけど、、、やっぱ生活不安だしぃ。。でも。決めた。
こりゃ、できる!オレでもデキル!やれば、できる!『SEX PISTOLES』の黄色のジャケット!を眼にした衝動感!を思いおこして。
ぜったい最初に覚えた感覚を忘れないで、オレでもデキル!やれば、できる!って何度も、自分に喝!を入れ!好きで何かやって、生きていこうって決めた。
  そんなタイミングで、『THE MAD CAPSULE MARKET'S』ってインディ−ズの4人組と出会っった。アルバム『HUMANITY』ジャケットデザインの仕事で横浜の中華街で飯食いながら初めて喋ったんだけど、、よくあるタイプの人間像とは、ちと違う、、なんて、ゆうか、オレがじっくり観察されちゃってるっていうか。
「なんか、今のバンドブ−ムって、何?オレたちゃレコ−ド会社なんて、大人なんて、周囲に振り回されないし!ぜったい、騙されないっ」て、、
すごい意志のカタマリをそこに感じたのだ。独立した矢先に、そんな4人と出会って、ますます勇気をもらった気がした。
なんか、弟と同世代、、、、、ちょっと素直でクセのあるBANDは、なんかっちょっと前に自分の中にあった眼を、カッ!って醒ましてくれた。
これからインディ−ズをリリ−スする。まさに、オレの事務所と一緒に出発する感じだぁ!1990年はスタ−ト!の年になった。
  前にも増してエネルギ−がみなぎってきた。会社時代に引き継げなかった仕事は、もちろん、そのまんまやったし。
会社時代に知り合った営業マンがアップルコンピュ−タ・ジャパンに転職してて、そこから『マッキントッシュ』の広告キャンペ−ンや、カンムリ・スポンサ−で開催する『ジャネット・ジャクソン ジャパンツアー』の公式ロゴマーク、ツアーポスターデザインの仕事も来た。
これも『BUCK-TICK』が東京ドームでLIVEを開催したから、、かなぁ、、、とか思ったけど。ha ha ha ha ha-
  『THE STREET BEATS』は、OKI & SEIZI兄弟以外のリズム隊が脱退したとのこと、、、、ウソッ、、、まだ、デビュ−したばっかじゃん。
LIVEの動員も着実に増えてるし、、、、、。なには、ともあれ。脱退した。で、どうするのぉーとか心配してたらOKI & SEIZI兄弟だけで行くって。
NEW SINGLEはLONDONでレコ−ディング作業+ジャケット+PV撮影するってことになったの。で、オレは19歳の一人旅以来7年ぶりに、あの街に出かけることになった。
今度は、観光とか、じゃなくて。仕事で、LONDONだぁ。また、あの空気が吸えるって思ったら、もうワクワクだぁ。これも、独立祝いなのか。
LONDON着いたらレコ−ド会社のディレクタ−は帰っちゃって、、OKI & SEIZI兄弟と現地スタッフ+オレとカメラマン+PV監督だけだ。
ロケ地をみんなで決めて、、初めての海外ロケのスタ−トだ。日本にはない現場だ。撮影用のム−ビ−機材やロケ場所、、、なにもかも身体に入ってきた。
で、フリ−の時間はオレが10代の頃一人で歩いた街をOKI & SEIZIと歩いた。この店は、ここ。LIVE HOUSEは、マ−キ−はここ。ゲーセンはここ。
なんて現地コ−ディネ−タ−みたいに、、、。3人とも、バイク乗らないのに地下鉄でライダ−ス着てロッカ−ズを決めてるもんだから、、
LONDONの同世代の不良たちからは、、、すっげーからかわれたりした。ムカツイタけど、仕事だ、仕事だ、って言葉わからねぇーようにしてた。ha ha ha-
  『G.D.FLICKERS』は自分たちがインスピレ−ション受けた曲のカヴァーアルバム『STANDARD?』をリリ−スすることになった。
で、デモトラック聴いたら、なんかオレが聴いてたインスピレ−ション受けた曲がそのまま、ずらりとならんでたんだ。これが。
ジャケット+PV撮影はタイ。バンコクなのである。また、海外ロケじゃんよ−。しかも、バンコク!あっ、またぁha ha ha ha ha どんどん繋がってくー
カメラマンは、なんと、あの『THE MODS』の森山さん。あーすっげー。JOEたち『THE CLASH』大好きだったし、、、
『THE CLASH』のアルバム『COMBAT ROCK』って。タイ。バンコク撮影だったじゃん。で、TOO MACH HOT CITYに向かった。
森山さんは、バンコクに住んでんじゃねーかって思うほど、町の顔だった。『THE MODS』はバンコクでもリリ−スしたり、LIVEやったりしてるから、、当たり前かぁ。
それにしても、ここでもオレたちの海外ロケは楽しかった。煮詰まったり、、とか、、それっ何?ってくらい。終始、笑い声しか聞こえなかった。
とんでもない日本の不良軍団だったかも知れない。移動で乗っかったツクツクは、楽しい。カレ−はじめタイ料理は、絶品!夜は、永遠に楽しい。
オレはニヤリとした。メンバ−5人とも、さらに絆が図太くなったし、アジアのおもしろさを、はじめて外国人っぽく受け入れた。
  『BUCK-TICK』アルバム『悪の華』をリリ−スして、今じゃ考えられないが、全曲のPVを作りながらも念願のTOURをスタ−トさせた。
横浜アリ−ナも出来て、そこでのLIVEも決定した。ファンの喜ぶ顔も想像できる、、、、おまけにTOURで売るパンフレットの撮影では、その後、長い付き合いになる同世代のクリエ−タ−とも出会えた。ヘアメイクの谷やん!(現ファッッツ・ベリ−の谷崎さん、ね) 
それまで一緒に仕事したのって、ヘアメイクっていえば女の人か、ちょっとゲイっぽい人が多かったのね。でも彼は、オレと変わんねー!男くさいヤツで印象残ったのと、やっぱ同部屋でガンガン呑みながら、これまでの、ここで会えた、いきさつをハラ割って喋れたってのがデカいなぁー
それから、オレと同世代のクリエ−タ−たちとの交流も、ほんとの意味で増えてきた。下積みをしっかりやって、、、プロの"個"としての本物の出会いは、またまた、自分に勇気をくれるし、、、パワーがみなぎってくるぜ。まったく。
  LIVEや打ち上げ、プライベ−トでの呑み!の場面も増えていき、、、、、ますますミュ−ジシャンたちとの、人間。対。人間。の付き合いも深まっていくのだった。六本木に事務所かまえたから、、もう、、飯食ったら、もう毎日毎日。
誰か、彼かと、呑み、呑み、呑み!が、始まった。そんなかで、いろんなエピソ−ドが生まれ始めたのだ。
そのころの六本木の街は、毎日がお祭りさわぎ。朝まで世界がひっくりかえったようにバブルに溺れて、溺れまくってた。
  いつも溜まって呑んでた店から見えるお墓さえ、毎晩賑やかに騒いで、騒いで、騒いで、華やかに見えたかも。
特に『THE ROCK BAND』のシゲル。事務所も同じ六本木って事もあって。もう、ほとんど毎日。一緒に呑んでたかも知れない。
行く先々で、ますますいろんな人達と巡り合えたし。勉強にもなった。ほんとうに、六本木の、夜の、奥は、人々は、とんでもなく深くて、深くて、、、、、、、、