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020◆ポジティブな創造性は、本当に愛を見せる。


  1997年『BUCK-TICK』はレコード会社移籍が決定した。そして事務所も、独立した。「死んじゃう、かも、の、その瞬間」ってヤツを超えて帰って来たATSUSHIも、順調に復活してる。そいつも、もう、すべてが、リスタ−トする1997年だった。例年とは、比べものにならないくらいのイキオイでIMAIの楽曲も仕上がっていた。7月後半からはレコ−ディングに突入して、11月には、移籍第1段シングル。12月には、移籍第1段アルバムを発表することも、夏には決定していた。「ストリ−ム・ライナー」とか「デユアル」なんて、仮タイトルの入ったシングル候補の、デモ楽曲も聞いた。キャッチ−でポップで何処か歪んでる、テクノxアバンギャルドxxxxxxxx

  いよいよ、『BUCK-TICK』が、リフレッシュして、贅肉を削ぎ落として、、、また、動き始めた。、、、、

  シングルの歌入れも終わり、『ヒロイン』が完成した。ジャケットのヴィジョンは、なんとなく、ATSUSHIに「絵」をイメ−ジで語ってもらい、、、それを、、具体的に眼で見えるカタチにしていく、、、そんなやり方をした。目を閉じて、、、、目を閉じて、、、、目を閉じて、、、、
  数珠つなぎになったガラス玉が、ル−プして、、、ただ、、、遥かに、空を超えて、空を超えて、夜の果てまで、、、、。カメラマンのM.HASUIと。ガラス玉まで用意してくれたスタイリストの八木さんと。スタジオに隠って、ただのガラス玉と、格闘した。で、ATSUSHIの、言葉のひとつ、ひとつの意味を、深く、深く、感じながら、、、、『ヒロイン』を眼で見えるカタチにしていった。
  また、アルバムのデモ楽曲を聞きながら、なんともなく、、、、オレが事故で入院中、ノ−トにスケッチした「夢」の絵を、ア−トワ−クでやってみたいって、考えはじめた。それで、CGなんかじゃ、なくて、実物を前にしたかったので、ヘッドモデルを造型作家のCOOL KENと一緒に、早くからセッションを始めた。オレが見た、その夢は、、、「ダミ−・ヘッドがガラスケ−スの中にあるんだけれども、ギタ−のシ−ルドみたいなモノが装着されてて、、、、、眼のある位置に引き出しがあって、、、いろんな言語が、、、ボロボロと出て来た、、、そいつが、対して意味ない言葉で、、、そいつを溢すと、、、、今度はダミ−・ヘッドが、ボロボロと、壊れていく、壊れていく、、、、」って、なんか、奇妙なヴィジョンだったから、、、、(頭蓋骨を割っちゃった、恐怖心から、かも、、?)ともかく。具体的なビジュアルにするからには、、、結構、COOL KENとのミ−ティングには時間を使った。細部まで、ヴィジョンを固めて、撮影したアルバム『SEXY STREAM LINER』のア−ト・ワ−クは、、、多分、初めて。オレの夢日記を、そのままカタチにしたものになった。「じゃ、シ−ルドの先端は、サメみたいなカタチだったら、、どうよ!」なんてIMAIのアイデアも、いただいた。いつもにはなく、順調に楽曲が出来て、余裕もあるレコ−ディング、、、。そして、余裕あるア−ト・ワ−クの期間が、オレには用意されてた。夢で出会った、そのダミ−・ヘッドの細部にわたるまで、、、じっくりと、向かい会えた。レコード会社移籍したものの、ドタバタ感がない、リスタ−トだったのかも知れない。
  この時期は、『BUCK-TICK』リスタ−トのためのア−ト・ワ−クに、その、ほとんどの時間を費やしたが。友人でもある、サッカー日本代表・岡野雅行が、戦う!、ワールドカップ・アジア予選にも、東京国立競技場での試合には、『J 』やカメラマンの『MASA』。ラッパ−の『RINO』なんかと、出かけては、客席からダイレクトに応援した。初めてのワールドカップ出場を賭けて戦う男達にも、勇気を、いっぱいもらった。凄まじい忙しさでは、あるが、サッカー日本代表戦は、ぜったいに時間を割いていたなぁ、、、、。チケットが、いつも手に入ったことも、ラッキ−であるが、、、、、。
  みんなで部屋呑みしながらサッカー観戦中の『BUCK-TICK』U-TAからも、よく興奮気味で、携帯にスタジアムのオレ達に、電話もらってた、、、毎回、毎回、、、「国立、盛り上がってるぅ?ワクワクするねぇ!勝てっかなぁ、今日?」なんて、、、(笑)。
  1996年暮れ『LUNA SEA』< UNENDING STYLE TOUR FINAL Christmas STADIUM〜真冬の野外〜 in 横浜スタジアム >、、、オレが病院を抜け出して参加したライブで、、、突然のように発表された、『LUNA SEA』活動休止から、、、、、。

  再始動で全員で集まる。、、約束の、、、、、、、1997年10月1日。

  その日をいよいよ迎えて、『LUNA SEA』の5人。レコ−ド会社の総スタッフ、そしてレコ−ディング・スタッフ、マネジメント・スタッフが、とあるリハ−サルスタジオへ集まった。『RYUICHI』『SUGIZO』『INORAN』『J』『真矢』、、、。1996年暮れに別れて、、、それは、もう久々の再会である。もちろん、オレも向かった。
  それぞれが、自分の思い描いてた、『LUNA SEA』としては、できなかった表現活動を、抱えて、また戻ってきたのだ。さすがに、5人それぞれの時間に、すべて付き合ったワケではないが、誰もが、思いきり自分自身のやりたかったことを、やってた、し。端から見る人達からしたら、今までにはない、5人が、5人とも、それぞれが、しっかりと立っているBANDに、おおきく成長を見せていた、と思う。スタッフも膨大に膨れ上がってる感じだった。1991年メジャ−デビューにおけるアートディレクションからスタ−トしたオレと、『LUNA SEA』5人の、なんら変わらない関係では、あるが、、、。ほんとに、大きくなったイメ−ジがした。レコ−ド会社の総スタッフの皆さんが、はりきってのバ−ベキュ−パ−ティを、、、主催してくださった。
  その日は、もう寒くて、寒くて、、、なんか、キャンプファイヤ−じゃないけど、、、たき火で、舞い上がる火の粉を、、、なんか、、、、覚えてる、、、。うれしい、けど、、、なんか、ちょっと寂しい、、、、イメ−ジがある、、、(何でだろ?)
  、、、、、その時は、ただ、ただ舞い上がる火の粉を、酒呑みながら、、、見てただけなんだけど、、、。。
  リハ−サルスタジオへ入ると、いつものように、サウンド・スタッフが明日から始まるリハ−サルの準備に、おわれていた。『真矢』『INORAN』が音出ししてたから、、、オレも『J』のブ−スに入ってベ−ス鳴らして、遊ばしてもらったり、、、(ああッ、相当、気分良く酔っぱらってたかも、、)わっ、わかんねぇやぁ、、、。
  翌日のミ−ティングでは、1998年の『LUNA SEA』カレンダ−と。次にリリ−スされる、初のシングル集『SINGLES』のミ−ティングをやった。もう、オレの中では、、、両方のアイデアが、用意してあり、、、メンバ−の意見も入れながら、、、アイデアを固めていった。『SINGLES』はメジャ−・デビュ−曲「BELIEVE」から、活動休止した1996年のシングル「IN SILENCE」までの、SIDE-Aを年代順に編集したDISK-1. そしてカップリングであるSIDE-BをDISK-2. にまとめたもの。5人の、DNAの螺旋を思わせるヴィジョンを提案した。〜『RYUICHI』『SUGIZO』『INORAN』『J』『真矢』5人のDNAが、永遠に続いているヴィジュアルに臨んだ。また、カレンダ−は、5人を別々に撮影しても、カレンダ−をめくってくと、、、、『LUNA SEA』5人の集合写真になるっていうもの、、、。
  5人からは、、、いつもと、変わらない「また、頑張ろうねぇ〜ケンちゃん!」なんて、、、。リハ−サル、、そして、次なる新作の制作に、突入する、、、まさに、『LUNA SEA』もリスタ−トする。
  初のシングル集『SINGLES』発売を前に、5人での、合同記者会見、そして、赤坂BLITZでのシ−クレットGIGを控えて、、、活動休止後、初めての5人全員で、集合ア−ティスト写真のセッションをやったが、、、、、。これが、、、なんとも、経験したことのない、、、難しいものになった。集合ア−ティスト写真の撮影自体が、久々な上、、、。5人のテンションが、どうにも、ピタリこないのだ。
  、、、、うまく言えないが、ソロでの撮影では、まったく感じないくらい5人の強烈で力強いテンションが、、、、。集合写真になると、噛み合わない、、、ア−ト・ディレクタ−としても、イライラさえ、してくる。実際に、自由な立ち位置と、ポジションで行なったセッション分は、オレ、生まれて初めての!!没!!!を選択した。
  そして再度だ!、、、再撮影にした。、、、、、今度は、8X10のポラロイドを使用して、、、5人のテンションがくる!!来た!!!!ってまで、トライしてみようって考えた。狭い中に5人を入れ、5人とカメラマンの『NICCI KELLER』とオレだけにしてくれって。、、、膨大に膨れ上がってるスタッフを、(申し訳ないが)すべて、シャット・アウトした。5人の立ち方、位置まで、細かく決めて臨んだ。その意識が、良かったのか、5人のテンションの強さが、『LUNA SEA』という固まりに、やっと見えてきた。これで、1997年末の再始動に、向かえるのだった。
  ご承知のとうり、この年。サッカー日本代表は、ワールドカップ・アジア予選を、初めて突破!した。それも、1997年の1月頭に、『LUNA SEA』の『J 』と、新年会で一緒して、1997年のテ−マに『ワ−ルドカップ出場』を掲げて、オレ達に約束をしてくれた男、岡野雅行「浦和レッドダイヤモンズ」のVゴ−ルが、決定弾!!!になった。まさに、なんとも感動した年だし、忘れられない年になった。

  12/17に合同記者会見、そして、赤坂BLITZでのシ−クレットGIGで『LUNA SEA』は、再始動!を正式発表する。そして、1998年へ、、、、、、ソロ活動を超えて、成長した5人は、最高傑作アルバムを制作すべく、レコ−ディングに突入していた。年内には、先行シングル曲も候補が決まり、、、、もっと、もっと輝けるように、、、、、、、、、。、、、オレは、年明けから、「光」を「絵」として表現すべく、その方法を探っていた。

  また、『BUCK-TICK』は1998年から始まるTOUR「SEXTREAM LINER」の前哨戦として、12/26 + 27に、TOUR「SEXTREAM LINER(零型)」を日本武道館にて行った。また、1998年頭に発売されるリミックス・マキシ・シングル『囁き』+アナログ盤『LTD』のジャケット制作にも、取りかかっていた。『SEXY STREAM LINER』のア−ト・ワ−クの延長で、ダミ−・ヘッドが、その眼のある位置に引き出しをなくして、アイ・コンタクトをしてるヴィジョン、、、、囁きを、、ダミ−・ヘッドが感じてる様を、表現した、、、。それも、世間がバタバタしてる1997年の暮れ、12/30 + 31で撮影したような思い出が、ある。年末年始も、ない。
  オレは、通院自体も、1997年後半は、すっとばす!勢いなのだ!もしかしたら、今までで、一番くらいア−ト・ワ−クに追われてた年かも、知れない。そのくらい、その忙しさが、最大級のリハビリだった。
  そして、もうひとつ大きなリスタ−ト!があった。『X JAPAN』が、その長い歴史に、まさかのピリオドを打つことと、なった。1997年12月31日。東京ド−ムでの『THE LAST LIVE』である。オレは『 hide 』のことを兄貴のように慕う『LUNA SEA』の『J 』と、そのピリオドの瞬間を見届けた。その大晦日、『 hide 』『 PATA 』『 HEATH 』。そして、、、、、、『 hide with Spread Beaver』のメンツが集まった打ち上げに行った。その日は、なぜだか、『X JAPAN』が終わったなぁ、、、、、、、なんて、ことよりも、、、、、、、、。
  『 hide 』が、ハシャギながら、自身の新聞広告のデザインを掲げた!、、、、「明日、1998年1月1日!オレたちは、スタ−トします!」
  『 hide with Spread Beaver』名義で1998年1月にリリ−スするシングル「ROCKET DIVE」。 それから、飛び出して!始まって!!もう、ますます、そのスピ−ドをあげて!!!リスタ−ト!!!!GO!!!!!!!して、音楽業界に殴り込みにかかる『 hide 』の輝きが、あった。そして、なんとも計り知れないエネルギ−のカタマリを、そこに見た。

  同じタイミングで頭カチ割った、もうひとりのDRUKER!!頭蓋骨骨折友の会?会員!!!『 h i d e 』も、もうリスタ−ト!なのだ。
ますます、この生き方に、、、、誇りを持とうって思った。そして、そこに居るヤツラすべてに、感謝したいって思った。
  将来なんて、解らないから、面白いんだ。きっと。
  死んじゃう、その瞬間まで、最高の愛と、発想を、見せてやるつもりだ。10代や20代は、30歳になっちまったら、、、きっと、この情熱も、冷めちまって、一般的な暮らしに追われちゃってしまう「恐怖心」が、いつも、あったけれど。もう、そいつは、一切ない。歳は、みんな、当たり前に数える。が!、、、スピリット!なんだ!力強いスピリット!

  「死んじゃう、その瞬間」ってヤツも、そいつを超えちゃっう「勇気」も1997年には、いただいたと思えた。自分自身を、もっと、よく見つめられた。その「孤独」の中で、人生の多くをオレなりに、勉強した。
  愛する音楽へ、もっと正面から向かって、、、、そこから、素直に出てくるポジティブな創造性は、本当に愛を見せる。そう、強く感じた。自分の脳、なのか、ハ−ト、なのか、自分自身でしっかりとつかまえて、、作品を産み落とすまで、それは、楽しい時間でも、あるが。苦しい時間でも、ある。
  が、、、そいつが音楽と一緒になって、突き抜けていく瞬間に、最大級の喜びを掴める、、、、

  キミガシン..ダラ、、、、、死んで、始まる。、、、、、なにかを、捨てて、でも、愛せる何か!が!あれば、その瞬間まで、最高の愛と、発想を、見せてやれるんだ。オレも含めて、人生のリスタ−トを、感じた、1997年の終わり。