SAKAGUCHI KEN FACTOY,inc. 2-14-10 Misyuku,Setagaya-ku,Tokyo,Japan 154-0005 TEL:03-3424-2304 FAX:03-3424-2341
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014◆Somewhere/Nowhere 1995
    オレも世界を廻った、廻った。 --3



  東京に戻ったら、『LUNA SEA』は既に!ニュ−・シングル『DESIRE』のレコ−ディングの真っ最中!!!で、そのデザインの打ち合わせに向かい、本当にヒサビサ!に5人と、再会した。それは、4thアルバム『MOTHER』を抱え、飛躍のLIVE TOUR『MOTHER OF LOVE, MOTHER OF HATE』で全国を廻ってからくる自信と、手ごたえなのか、、、スタッフも含め、誰もが自信に満ちあふれて、輝いていた。オレは、彼らが次のドアを叩くためにも、また新しいグラフィックのパ−トナ−を探していた。もう、1年も前の『中山美穂』Tour1994『Pure White』のパンフレットで、相手役のピエロの子供モデル!!として登場してもらった、、、『ニロくん』!(最近では、なんと。『J 』のビデオ・クリップ『alone』に出演したり、オレと一緒に『J 』のトラックにコ−ラス参加するくらい、大きく成長しちゃった、、、が)。彼の家に遊びに行ったとき、お父さんが、フォトグラファ−だったことを、パッ!と、思い出した。『NICCI KELLER』!!そうだ!あのスイス人カメラマンって、フィジカル的にも強靱なイメ−ジだったし!世代もオレと近いし、、、。多分、これから、オレと一緒になって、いろいろとセッションしながら、面白くなりそうな、、直感!だね!なんか、電気が走ったっていうか!
  で、まずは『NICCI KELLER』と、会って、もう一度、彼のブックを見せてもらった。インフラレッド!っていう不可思議な発色!をするフィルムを使ってることと、被写体が、いずれもエネルギッシュ!だったこと!オレは『NICCI KELLER』っておそらく、フルに全神経!と全肉体!!でカメラを操るんだなぁーって、確信した。  
  オレはベットに入る時、決まってアイデアが湧くから、、、、、、、いつものように、『DESIRE』のラフ・トラックをかけながら、軽い睡眠をして遊んだ。、、、、でッ!、、、その時、すぐに、、、夢で見たのが、「女の人が、、、、、。古くて抱えきれない程の、大きな時計をもって、胎内でゆらゆらと、白いドレスを揺らしながら、、、微笑んでた」イメ−ジ!!!。アルバム『MOTHER』で表現した女性とは、違って!おおらかで、暖かい幸せ!にやさしく、包まれてたのだ。ハッ!と眼を醒ましたら、すぐにその「夢日記」を絵にした。、、、、、コ、レ、ダ。宇宙から降ってきた絵を組み立てて、偶発的に!アプロ−チするんだ!
  『LUNA SEA』の5人。そして『NICCI KELLER』と相談して、この偶発的なイメ−ジ作りは、メンバ−撮影とは同時進行しないで、オレたち2人だけに!まず!任してくれって言った。で、水中撮影が可能なスタジオで、まずはジャケットのヴィジョン!だけに集中して撮影した。オレもNICCI も、もちろん海水パンツはいて、セットとライティングが整ったプ−ルの中に入った。初めての水中撮影だぁ!モデルの女の子も、実はニガテな立ち泳ぎ!ってヤツ!を真剣勝負で、やってくれた。イメ−ジのとうり、NICCI は肉体的に強靱だ!少しの疲れも見せずに、長時間の素潜りでの水中撮影を、なんなく進めていく。オレも、『DESIRE』のビデオ・クリップで、もしかしたら使うかも!ってワケで。ビデオ監督の『大坪草次朗』から借りた8mmカメラを、(水には危険とは承知ではあるが、、)ビニ−ル袋につめ込んで、水中でフィルムを回していた。、、、ここでの写真を、メンバ−に見せたところ、彼らはみんな!この新しいアプロ−チに満足してたし、、、『NICCI KELLER』との出会いを!新しいグラフィックのパ−トナ−の発見!を心の底から喜んでいた。で、ジャケットのメイン・ヴィジョンの世界観に答えるカタチでア−ティスト写真のセッションに臨んだのだった。
  余談では、あるが、、彼らのレコ−ディング・スタジオにチョクチョク行ってて思うことが、あった。、、オレに『J』が『INORAN』が『SUGIZO』が、その頃、良く聞いてきたコトが、『DJ KRUSH』のことだった。、、、まさか、彼らが『DJ KRUSH』のアルバムを聴いてるなんて、思いもしなかったが、、、、「どんな人?」「何処で、知り合った?」「レコ−ディングは、どんなカンジィ?」「新しいアルバム『迷走MEISO』ってホント!かっこイイ!」、、、、、なんて、やたらと興味を持って聞いてきてた。、、、これも、後に『J』が『INORAN』が『SUGIZO』が、『LUNA SEA』の5人が『DJ KRUSH』と一緒に、それぞれが音楽でコラボレ−トするなんて、ここでは予想すら、できなかった。
  それから、『LUNA SEA』は!初めての東京DOME LIVE12.23『LUNATIC TOKYO』を決定!した。それに向かってのミ−ティングもスタ−トした。オレにとっては、1989年に復活第1弾で『BUCK-TICK』が『バクチク現象』でやって以来の!!!東京DOME LIVEの仕事になった。『LUNA SEA』の5人は、いったい、どんなステ−ジを見せてくれるんだろうか!もう、年末が楽しみで、楽しみで!音の作り方も、難しいだろうし、5万人、、、もう武道館が、何倍もはいっちゃう、その箱を!ライブ・ハウスなみの、充実感でいっぱいにできるのだろうか!
  リハ−サル・スタジオを打ち合わせで、訪ねては、家が近所の『J』と、帰りがてら2人で、とか。社長とか、マネ−ジャ−と呑んでは、いろいろと喋った。セットに凝っちゃって、単なるショ−アップだけ、やって、まだ少ないヒットシングルをメインにして、、、オ−ディエンスの顔色を伺いながら、ただ、ただ東京DOME SHOWで〜す。みたいな、その場限りの、単なるお祭りさわぎ!だけには、絶対に!したくないッ!
  「会場が変わるってだけで、『LUNA SEA』は、『LUNA SEA』!これまでどうりのライブをやろうッ!」って、ことだった。、、、、CFのタイアップ!やドラマの主題歌!で、なきゃ、入っていけなかったチャ−トの世界にも、頑なに!断り続けて、自らのライブ展開や、プロモ−ション方法論で、ここまで来たBANDだから、やっぱ!こだわってきたスタイルだけは、貫き通す!ってことか!なんか、ますます!『LUNA SEA』の5人のスタイル!ってものが、はっきりと見えてきそうな、そんな、予感がした。
  あちこち海外に行ってて思ってた事がオレには、あって、、。東京だけは、いつもいつの時代も!スクラップ・アンド・ビルド!の勢いで街が、その姿を変えちゃう街だなぁー!って、それが、東京なんだぁー!って思って、、『LUNA SEA』の、初めての東京DOME LIVEは、この1995年の頃だ。っていつまでも、誰の心にも、残るように、『LUNATIC TOKYO』のグラフィック展開は、「1995年東京の、今!一瞬」って、決めた!
  で、その頃の東京で、開発中だった!お台場!の中に立って、、、『LUNA SEA』の5人を撮影しようと考えたんだ。、、、撮影許可を東京都にもらって、珍しく、朝から夜まで!5人そろっての、1日中!開発中!お台場!探検隊!!!!!になった。東京都からは、撮影許可書と、撮影中の危険を考えてだとか、(なぜだか?)ヘルメット!がフォトグラファ−とモデル用に用意されていた。事務所に朝イチから、5人+スタッフ全員集合ッ!!で、御近所のお台場!探検!に出発した。ガラ−ンとした空き地に、まだ作りかけてる「ゆりかもめ」の橋脚らしきもの、、、作りかけてるフジテレビとか、資材のヤマ、、、あげてくと、キリないくらい、、、。ひっきりなし、に、資材を積んだ大型トラックや、トレ−ラ−が走り廻ってた。「1995年東京の、今!一瞬!」、、、、、なんで、こんな埋め立て地に住もうって思うのかなぁ〜。いずれは、地方からも、みんなお金落としにくるデ−ト・スポットになるんだろ〜なぁ。なんて、、ひさびさの東京ロケは、いろいろと考えさせられも、した。
  面白かったのは、その埋め立て地で『SUGIZO』のソロ・セッションをしてた時!、、、なんと、工事現場の係員がやって来て、、、、「フォトグラファ−とモデルさんは、危険ですから、ヘルメット!を冠ってくださいッ!!」なんて、怒られた時だ。アッハハハハァー!、、、、「そんな、こーんなダダッピロイ!空き地に『SUGIZO』めがけて、なにが落ちてくるってんだぁー!それに、現場の工事用ヘルメット!なんて『SUGIZO』が冠れるのかよぅ!」、、、、、で、みんなで、すぐそのロケ場所を、離れることにした。東京都から、撮影許可書はいただいているものの、現場の人々は、上から言われたことえを、まる覚えで!オレたちに押し付けてくるだけで、、、!ほんと、今度はマネ−ジャ−を見張りにつけながら、ゲリラのように撮影していった。
  今、現在。ライブで時々、ZeppTokyoやらに行くたびに、時々『LUNATIC TOKYO』のフォト・セッションを思い出しては、一人、ニヤニヤしてて、、、イカン!イカン!って思うんだけど、、、。海外ロケばっかりが、続いたものだから、なんか東京の都市計画や、街のハヤリ!スタリ!がコロコロ変わって、不思議で、不思議で、、、。みんな、コントロ−ルされちゃって、されちゃって、、、。(あっ!オレも、その東京人か!?、、、、苦笑!)
  『BUCK-TICK』は、これまでリリ−スしてきたシングルコレクションアルバム『CATALOGUE 1987-1995』をリリ−スすること、になった。今年2枚目のアルバムだ。しかも、初のシングルコレクション!
  パッケ−ジデザインのレクチャ−は、メンバ−との打ち合わせもないまま、レコ−ド・メ−カ−のディレクタ−から、もらって。ブックレットと封入する特典ステッカ−は、これまで、オレが作ったジャケットの絵をそのまま使って、、、なんて、簡単なものだった。外装になるパッケ−ジは、黒い布張りで!箔押しなんかして!『BUCK-TICK』としては、はじめてのデジパック使用!!なんてワガママ聞いてくれてるし、、、(これは、イイ!としても、、)。ブックレットのインナ−や、特典ステッカ−は、そのまま過去のア−ト・ワ−クのままでイイのか?!なんて、、、。思ったけど、、、どうも、しっくりこないっ!のだ。完成見本を作って、5人に見せに行く段階にきても、、オレの頭ん中からはこのデザインで、そのままでいいのか!って!「?!?」が消えなかった。ヒサビサ!に5人と、再会しながら、、、オレ。「これって、ダメじゃん、ねぇ〜!」なんて、今まで言ったことのない、自信のない声と姿勢で、デザイン提示をした。5人は、、即答!「うん!もちろんッ!ダッメッェ〜!!!」アッハハハハァー!って、一秒でオレ!殺されたっ!
  生まれて、初めてくらい、最初から、自ら、負けてたプレゼンテ−ション!ってヤラを、しでかしてしまった。、、、、一同!大爆笑!の渦だ!、、、、、、だっから、このデザインやってて「?!?」が消えなかったんだけど、、、。で、これまでのア−トワ−クを、軽く、撫でるがごとく、、、いじくっていった(今、思い返すと、これはちょっとはずかしい)。今まで作ってきたものを、思いっきり!壊す!!!そして、また!再構築して作り出す!蘇らせる!!!!!、、、リミックス!の感覚が!これこそが、オレに欠けてるっ!って危機感を、ハッキリと自覚した。
  ア−ト・ワ−クにも、、、、、リミックス!の感覚!が必要不可欠だって、こと。オレはこれを、すっかりと忘れていたのだ。、、、、今年5月にリリ−スしたモンスタ−・アルバム『Six/Nine』。その、ア−ト・ワ−クに、自ら、あまりにも酔いすぎてて、、、なんか、東京戻ってきて、はじめての次の仕事で、、『BUCK-TICK』の5人に一秒で殺されたっ!オレ。これは、本当に勉強になった。いつでも、自分の過去に産んだモノを破壊できる勇気!!、、、作品を、産んだ瞬間から、反省する!さらに考える勇気!!さらに、もっと!を、忘れない姿勢!、、、、スランプに落ちないように、この仕事のことは、ぜったいに!忘れないように、と、心に!しっかりと、刻んだ。
  その頃、もう新しいアルバム制作に突入してた『THE MAD CAPSULE MARKET'S』とは、レコ−ディング・スタジオで、これまた、本当にヒサビサ!の再会をした。彼らは、前作のアルバム『PARK』を、アメリカ西海岸のインディ・メ−カ−からリリ−スしていて、、。前作の中から何曲かは、KYONOが英語ヴァ−ジョンで歌いなおしたテイク!も用意していた。
  で、レコ−ディング作業と、平行して、なんと!初の!海外ライブ!を計画していた。新しいアルバム!そのキ−ともなりそうな、新曲!『神KAMI-UTA歌』のデモ・トラック!を聞かせてもらった、、、!!!!!。
  、、、、まさに、日本、極東!をイメ−ジする、その後もずっと、『THE MAD CAPSULE MARKET'S』の代表曲!、、、つまり、日本、極東代表バンドの!代表曲!になるはずだっ!って思った。ズバリッ!カッコ!イイ!ノダ!今までにないポジティブな図太いリズムや、力強い、そのリフ!そして日本人ならではのKYONOの歌があった!「日出ズル国ニ神アリ ソノ光ト 共ニ 時ガ 始マル!」なんて、日本のすべての神をも、味方につけちゃう勢いの!前向きな歌だった!!!!
  デビュ−前から、常にグッとくる新曲は、いつもあったけど、ここまで!『THE MAD CAPSULE MARKET'S』が、確実に!!!なにか!を掴んだっ!!!!って実感できる音楽は、なかったからだ。レコ−ディング・スタジオでは、コンポ−ザ−のタケシが、、ンッ!マ−!それは、見たことないくらい最高な、笑顔で!!!!、、、、、「新曲!『神KAMI-UTA歌』これっ!イイでしょ!」って、スタジオでの作業が、これまでより、グゥ−ン!と楽しそうだった。
  で、ア−ト・ワ−クの相談を始めたんだけど、、、3Dのイラストレ−ションでアプロ−チしたいっ!て。なんか、最初っからタケシの中では、見えてたのかも知れない。これまでやってきたア−ト・ワ−クの方法論を、バッサリ!と切り捨てて、、、なんか、もう、ここでバンドがリセットするが、ごとく!

  テ−マは、今の『THE MAD CAPSULE MARKET'S』そう!世界に向かって発進する、そのタメ!の!ヤツ!
  大きなスケッチブックを、レコ−ディング・スタジオに持っていって、、オレも浮かんだ絵コンテを、どんどんと、イラストにしていった。日本、極東!ってことで、大仏のアタマが、ギタ−のシ−ルドだったり、、サムライがギタ−持って跳んでたり、、、菩薩さまがアンプの上に腰掛けてたり、、、、もう、オレたちは、新しい『THE MAD CAPSULE MARKET'S』のア−ト・ワ−クを探す旅に出た。
  その後、彼らはアメリカ西海岸はサンフランシスコへ向かった。新しいアルバムのレコ−ディング作業と、『THE MAD CAPSULE MARKET'S』初の!海外ライブ!を行なうためだ、、、。オレは、東京に残って、課題!の3Dのイラストレ−ション案を、描いてはFAXでタケシに送り、国際電話で喋り、相談を毎晩、毎晩やってた。「大仏のアタマが、ギタ−のシ−ルド」ってヤツも3D化してみたが、、、お互い、なんか、しっくりと来ない!で、もう、これでもかっ!!!ってくらい、ラフ・スケッチを描いては、送ってた。タケシもオレが送った絵を、ハサミでチョキ!チョキ!やっては、そのラフ・スケッチに改造したりして、オレにFAXくれた。そのくらい、『THE MAD CAPSULE MARKET'S』は新しいア−ト・ワ−クの方法論を、楽しんでた。
  ヴィジョンが、ある程度、固まったら、3Dイラストレ−ション作家の『丸山 竜郎』くんと、二人三脚で、毎晩、毎晩、3Dイラストレ−ションを完成させては、サンフランシスコで、レコ−ディングやってるメンバ−にも、負けないように、こだわって、こだわって!新しいア−ト・ワ−クの方法論を、楽しんだ。『丸山 竜郎』くんも、彼が普段、昼間かかえてる、(最初から完成が、見えちゃって、どうしょうもない、作業としてだけの、)どんな仕事よりも、想像の発想がグングン広がって面白いって!そう、言っては、静まりかえったオフィス街のド真ん中に、あるスタジオで、毎晩、遅くまで、、、、『THE MAD CAPSULE MARKET'S』の新しいヴィジョンの、誕生と、さらなる完成にオレと一緒に夢中になってた。
  その後、その曲『神KAMI-UTA歌』のビデオ・クリップでも監督すること!と、なり、、!また、スタッフィングされた。初の!海外ライブ!を、もちろん、撮影することも目的では、あるが、、、まだ、まだ、ビデオ・クリップどころ、か!新しいアルバムのア−ト・ワ−クもしっかりと、固まってないままだし、、、。でも、今後、ニュ−・アルバムからも、6曲くらいはビデオ・クリップを制作するって、ことで。、、、まぁ。今後のクリップの、素材にもなることだし、、、。なんでも、直接、メンバ−と会って相談することが、一番!
  なんて、、今度は、、、ひさびさのサンフランシスコに行くことになった。スチ−ル撮影も、同時に!ってことでカメラマンの『MASA』や、レコ−ド・メ−カ−のスタッフと彼らのサンフランシスコ・ライブへと、向かった。
  サンフランシスコっいえば、20歳くらいの時に、2日ばかり滞在したことが、あったが、、、なんかヒュ−イ・ルイスっていうその頃は、有名だったオッさんのサンフランシスコ・スタジアムでのLIVEと、デカイ橋を見に行ったことと、、路面電車に乗って、フィッシャ−ズマン・ワ−フ行ってロブスタ−腹イッパイ食べて、、、あと、チャイナ・タウンのメシがうまかった、、ってこと、、、あと、、坂道ばっかりの街で車が、坂におかしな方向で駐車してあるって、くらいの思い出しか、ない。(もちろん、オレ20歳ん時は、単なる観光旅行!誰もが、出来ちゃう観光旅行!なんだ)、、、、、まぁ、そんな、こたぁ!どうでも、イイッ!
  このサンフランシスコ行きは、ビデオ・クリップのためだし、、、新しいア−ト・ワ−クの相談だし、、、なんと言っても『THE MAD CAPSULE MARKET'S』初の!海外ライブ!をFILMの中に、収めるってことだ。
  到着して、ライブ・リハをやってる彼らを訪ねたら、まさに、明日、明後日に控えた!真剣そのもの!の姿が、そこに、あった。また、ライブ・ステ−ジのスタッフも、最少人数で構成されてた。スタッフも、東京のリハ−サルとは、違って!なんか、緊張感が心地良かった。
  彼らが出演するイベント会場も、昼間チェックしにいった。出演するクラブ近くのストリ−トでは、ホントに汚いガキが、ウロウロしてた。で、みんな、カ−ト・コバ−ンのような、いでたちで、ゴミ箱の上に座ってた。別に、なにをするわけでも、なく、、、、。みんな、ハッパやって、ぶっ跳んで!時間が止まってるように見えた。なんか、荒んだ街なんだなぁ〜!思ったより、田舎だしっ!多分、金ないから、、、この、カ−ト・コバ−ン風?若い世捨て人たちは、、、ライブ!来れないだろうなぁ〜って。
  オレは、そのへんのオモチャ屋さんに行って、エイリアンだの、バカおやじだの、被りモノを探した。それを被って、街中でギャグ!かまして!カメラマンの『MASA』と、端から見ればバカモノにも見えるような、素材撮影のFILMをどんどんと廻していった。
  初の!海外ライブ!で、まず面白かったのは、KYONOとタケシが、髪をバッサリ!散髪してあらわれたこと!なんか!ホントにこれぞ!日本、極東代表バンドって感じのルックスが、フロントに来たことだ!MOTOKATSUは、もともと、シンプルで短髪のイメ−ジがあったけど、特にタケシのイメ−ジ・チェンジは、周囲をびっくりさせた。なんかっ、これから『THE MAD CAPSULE MARKET'S』は、生まれ変わります!って、宣言にも感じられた。で、サンフランシスコでの彼らのライブ!は始まった。クラブのオ−ディエンスは、ほとんど酔っぱらってて必要以上に大騒ぎなんだけど、初めて、そこで日本から来たバンド『THE MAD CAPSULE MARKET'S』を見に来たヤツラや、共演バンドは、メンバ−や、オレたちスタッフに対してヒジョ−に興味を持って接してくれ、暖かい反応をしてくれた。オ−ル・ナイトのイベントだったから、、、そのまま、みんなしてクラブで遊んでたのだけど、地元のガキや女の子たちは、ホントッ!いろいろと喋りかけてくれた。特に気さくなキャラクタ−のKYONOの周辺には、ヤンチャなガキたち!が山のように、やってきては!乾杯!とか、サインを求めてタッ!ケッか!、、、、なには、ともあれ、、初の!海外ライブ!は、いろいろと、勉強にもなったし、、、、またメンバ−はもちろん、同行したスタッフすべての自信が!フツフツと沸き上がるものだった。
  で、肝心の撮影だが、、、なんたって、サンフランシスコのクラブは、ステ−ジ照明も暗くて、とても8mmFILMには、綺麗に写ってるワケもなく、、、やっぱり!思ったとうり、今後、何曲か制作するビデオ・クリップの素材と、なった。また、新しいアルバムからの先行シングルは1曲のみの!『神KAMI-UTA歌』に決定した!
  東京に帰ってすぐに、『神KAMI-UTA歌』のジャケットをデザインしてから、今度はビデオ・クリップの制作だ!昨年末とは、ビデオ・クリップの方法論も、変えちゃおうって、ことになって!で、初めて16mmFILMで、しかも、ビデオ・クリップの撮影は初めて!だっていう『NICCI KELLER』をメイン・カメラ!そして、サビで挿入するカットの8mmFILMと、VIDEOは『MASA』。こんなキャスティングをした。前作のアルバム『PARK』のビデオ・クリップ制作では、なかった超シンプルなアプロ−チで、この『神KAMI-UTA歌』を撮るのだ。、、、まず、細かいカット割りを、やめる。演奏をあくまでも、その軸にする!バンドの固まり感を、引き出す!、、、、なんて!もう、オレもこれまでの方法論を、バッサリ!と切り捨てて、生まれ変わったようなクリップ!を作ることに集中した。で、演奏シ−ンも、彼らが爆音出して演奏、できるように!普段のリハ−サル・スタジオを、そのまま利用した。これが、やらせ感覚のない演奏シ−ンだっ!ってモノを、ただ、ただ、狙った。
  いつものように、『THE MAD CAPSULE MARKET'S』のメンバ−は、ちょくちょく顔を出してくれて、仮編集するオレにアイデアと意見をくれた。で、、、完成したヤツは、、、、これでもかっ!ってくらいゼイ肉を、とって超シンプルで!今までにないポジティブで!図太いビデオ・クリップになった。最後の本編集でのオペレ−タ−の人も、、、「コレっくらい!ズコ−ンってしたビデオ・クリップって、ここ最近見ないんですよー!なんか、採って付けたようなドラマが、ちょこ!って入ってたりして、どうもバンドの印象が!薄っぺらくなるんですよねー!」、、、なんて、うれしい感想も聴けたりした。で、、、、帰りにみんなで、ラ−メン喰いに行って!当たり前!にうまかった!
  来年リリ−スするアルバム『4 PLUGS』のア−ト・ワ−ク・ヴィジョン!もしっかり!と固まって、オレたちには見えていた。

そうやって、、1995年は、今までにないくらい、とにかく世界を廻った、廻った。
オレたちが一緒に歩く、ミュ−ジシャンやクリエイタ−たちも、随分とタフになってきた。